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9月26日、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)没後110年の命日を迎えました

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ちょうど110年前、1904(明治37)年9月26日。東京・西大久保の自宅でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は亡くなりました。

妻セツによる回想録『思い出の記』には、その日のハーンの様子が綴られています。小泉八雲記念館(島根県松江市)で開催中の企画展「ヘルンと家族」でも取り上げられているエピソードですが、ハーンを偲ぶよすがとして、没後110年の命日にあたり、そのくだりを掲げます。

亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書斎に参りますと、もうさめていまして、煙草をふかしています。『お早うございます』と挨拶を致しましたが、何か考えて居るようです。それから『昨夜大層珍らしい夢を見ました』と話しました。私共は、いつも御互に夢話を致しました。『どんな夢でしたか』と尋ねますと『大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中』などと申して居るのです。『西洋でもない、日本でもない、珍らしいところでした』と云って、独りで面白がっていました。

三人の子供達は、床につきます前に、必ず『パパ、グッドナイト、プレザント、ドリーム』と申します。パパは『ザ、セーム、トウ、ユー』又は日本語で『よき夢見ましょう』と申すのが例でした。

この朝です、一雄が学校へ参ります前に、側に参りまして『グッド、モーニング』と申しますと、パパは『プレザント、ドリーム』と答えましたので、一雄もつい『ザ、セーム、トウ、ユー』と申したそうです。

この日の午前十一時でした。廊下をあちこち散歩して居まして、書院の床に掛けてある絵をのぞいて見ました。これは『朝日』と申します題で、海岸の景色で、沢山の鳥が起きて飛んで行くところが描いてありまして夢のような絵でした。ヘルンは『美しい景色、私このようなところに生きる、好みます』と心を留めていました。

〔中略〕

ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。

桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かヘルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。

午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談など云いながら大笑など致していました。『パパ、グッドパパ』『スウイト・チキン』と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で『ママさん、先日の病気また帰りました』と申しました。私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、愈々いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます。

小泉節子「思い出の記」青空文庫より)

 

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