小泉八雲について

評伝

パトリック・ラフカディオ・ハーンは1850年6月27日、ギリシャ・イオニア諸島のレフカダ島で生まれる。父はアイルランド出身でイギリス陸軍軍医補のチャールズ・ブッシュ・ハーン、母はギリシャ、キシラ島出身のローザ・カシマチ。したがってハーンは英国籍(現在でいえばアイルランド国籍)をもつ。

物心ついた頃から少年時代にかけて、父の実家があるアイルランドのダブリンに暮らす。両親の離婚により、母ローザがギリシャに帰ったため、ハーンは大叔母サラ・ブレナンに引き取られ、おもにキャサリン・コステロという乳母によって情操教育をほどこされる。キャサリンによって語られたアイルランドの妖精譚や怪談は、後のハーンの関心に大きな影響を与えた。また、アイルランド南部ウォーターフォード州のトラモア海岸での遊泳を通して、海への親近感と強い愛着を覚えた。

その後、北イングランド・ダーラムのセント・カスバート・カレッジやフランスで教育を受け、大叔母の破産という経済的理由から、19歳の時に単身、渡米する。知人をたよってオハイオ州のシンシナティに行くが、相手にされず、赤貧の辛苦を嘗める日々を送る。第2の父ともいうべきハンリー・ワトキンとの出会いやシンシナティ・エンクワイアラー社に持ち込んだ原稿が評価されたことから、もの書きとしてのキャリアを開始する。シンシナティ・エンクワイアラーおよびシンシナティ・コマーシャル社に記者として勤務し、その間に混血女性のマティー・フォリーと法律では認められない結婚をする。

27歳の時、ルイジアナ州ニューオリンズに移り、デイリー・シティ・アイテム社、さらにタイムズ・デモクラット社でジャーナリストとして活躍する。同地のクレオール文化(フランス・スペインとアフリカの混淆文化)に関心を持ち、1885年にはクレオールの諺辞典である『ゴンボ・ゼーブ』や世界初のクレオール料理のレシピ集である『クレオールの料理』等を出版する。黒人奴隷によって西アフリカから持ち込まれ、カトリックと融合したヴードゥー教などニューオリンズの宗教文化にも強い関心を示し、旺盛な取材で記事をのこした。

新聞社を退社し、ニューヨークのハーパー社の寄稿家となったハーンは、1887年から約20か月にわたり、カリブ海のアンティル諸島のマルティニーク島に滞在し、人類学者的・民俗学的関心でフィールドワークを行い、生活伝承の採集、生活風景の写真撮影などを行い、1890年にはその成果を『仏領西インドの2年間』として上梓した。

日本への関心は、ニューオリンズ時代の万博での日本館の取材によってすでに熟成されていた。ニューヨークに戻ったハーンは自ら日本取材の企画書をハーパー社に持ち込み、1890年4月4日に来日。しかし横浜到着後、契約内容に不信感を抱きそれを解消し、英語教師となる。前任者が解雇された偶然から、松江の島根県尋常中学校及び師範学校で1890年9月から1年あまりにわたって教鞭をとる。西田千太郎教頭との知遇は、後に妻となる小泉セツとの出会いをもたらした。松江では1年2か月と15日という人生で最も短い途中下車だったが、出雲地方の霊性、神道文化、人々のホスピタリティ、西洋料理が食べられる環境などに魅了される。見聞の成果は、『仏領西インドの2年間』と同じ、フィールドワークという手法で書かれたルポルタージュ紀行『知られぬ日本の面影』に結実している。寒さや経済的理由から1891年11月に熊本の第五高等中学校講師に転じ、1994年には神戸クロニクル社に転職した。1896年2月には・帰化手続きが完了し、日本人「小泉八雲」となる。1896年9月、チェンバレンの紹介により、帝国大学講師に就任し、東京に移る。1903年の解雇まで英文学史、詩論、詩人論などを講じる。1904年3月から早稲田大学講師に就任するが、心臓発作のため、同年9月26日に54歳で死去。

生涯の著書は単行本で約30冊(没後出版された、帝国大学の講義録等は含まない)で、形態としては、フランス文学の翻訳、ルポルタージュ紀行、再話文学に大別することができる。西洋中心主義に陥らず、かそけき者の声音に耳傾け、民衆の精神文化に潜在する”truth”(真理)の探究に没頭した。最晩年の著書『怪談』は、ハーンの再話文学の最高傑作といわれ、とくに日本では今日まで広い読者層を得て、読み継がれている。最後の著書『日本—一つの試論』は、多くの欧米の読者に恵まれた。同書にみられるハーンの日本人の精神史の解釈は、マッカーサーの副官ボナー・フェラーズ准将によって注目され、戦後日本の象徴天皇制の誕生に影響を与えることになった。
家族は妻セツとの間に長男一雄、次男巌、三男清、長女寿々子をもうけた。とくに、長男一雄には想像力と英語を重視し、西洋の口承文芸をテキストとした在宅教育をほどこすなど、子どもたちの教育にも心血を注いだ。