小泉八雲について

略年譜

1850年6月27日ギリシアのイオニア群島のリュカディア(レフカダ)の町にアイルランド人のチャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシア人のローザ・アントニオ・カシマチの第二子として生まれる。
1852年 父の実家のあるダブリンへ向かう。
1854年 母ローザはハーンを大叔母ブレナンに託してギリシアに帰る。
1857年 父チャールズはローザとの結婚無効を申し立て、アルシア・ゴスリンと結婚する。
1863年9月英国ダラム市郊のウショーにある聖カスパート校に入学する。
1866年 「ジャイアント・ストライド」の遊びをしている時にロープの結び目で左眼をうち、失明する。
1867ー1868年 大叔母ブレナン破産のためハーンは聖カスパート校を中退し、フランスのカトリック学校へ行く。さらに古い召使いキャサリン・デランを頼ってロンドンに移る。
1869年 親戚を頼ってアメリカのシンシナティーに行く。印刷屋のワトキンと友人となり、ジャーナリズムの様々な仕事をするようになる。
1872年 シンシナティー・インクワイヤラー社の有力な寄稿者となる。
1874年 挿し絵画家ファーニーと「イ・ジグランプス」を創刊。

発行巻数9号。

1875年6月黒人女性アリシア・フォリー(マティー)と結婚する。シンシナティー・コマーシャル社に移る。
1877年 結婚生活は破局を迎え、マティーは町を出る。
 10月メンフィスを経由してニューオリンズに行く。
1878年6月ニューオリンズ・アイテム社で副編集者の職を得る。
1879年3月「不景気屋」という食堂を始めるが、相棒の売上金持ち逃げにより、店じまいとなる。
1880年1月タイムズ・デモクラット社の記者となる。
1882年1月タイムズ・デモクラット社の文芸部長となる。
1887年7月マルティニークに行く。
1889年5月ニューヨークに戻り、フィラデルフィアのグールドの家に滞在する。
1890年3月アビシニア号に乗船し、日本に向かう。
 4月横浜に着く。
 7月島根県尋常中学校(松江中学校)、師範学校の英語教師に任命される。
1891年 小泉セツと結婚する。
 11月15日午前9時大橋西桟橋より汽船で松江を去る。
 11月熊本第五高等学校に着任。
1893年11月長男一雄が生まれる。
1894年 神戸クロニクル社に転職。
1896年2月帰化手続きを完了し、小泉八雲と名乗る。
 9月帝国大学文科大学講師に任命され、東京に移る。
1897年2月次男巌が生まれる。
1899年12月三男清が生まれる。
1903年3月帝国大学講師を退職する。
 9月長女寿々子が生まれる。
1904年3月早稲田大学文学部の講師の職を受ける。
 9月26日心臓発作のため死亡。(54歳)